泡沫の記録

人が夜眠れなくなるのは、自分は今日一日を満足できていないからだという言葉がある。
それを裏付けるように、かりゆし58はオワリはじまりで「もうすぐ今日が終わる。やり残したことはないかい?親友と語りあったかい?燃えるような恋をしたかい?一生忘れないような出来事に出会えたかい?」と歌っている。
なるほどこれがぐっすりと眠るために必要な条件なのか。
思い返してみる。
自分は親友に裏切られ半年以上前に疎遠になった。親友どころか親しかったはずの友人は裏切られたことを境にことごとく自分の周りから去って行った。イヤ、去って行ったというのはどうか。少なくとも自分という存在は手元に置いておくほどではなかったのだ。
次は恋だが生憎自分には恋など許されないのだと思う。先の通り、自分が親しいと思っていたはずの人間は自分の元から去っていくのだ。一生幸せにするとお互い誓いあった仲であってもそうなのだ。自分という存在はつくづく人から長期的に愛されることが苦手なようである。
一生忘れないような出来事というのは、今日ではないが出会ったことがある。今でもよく思い出しては胸が熱くなるのだが、親友に裏切られるという出来事のことなので胸くそが悪い。胸が熱くなり頭に血が上るのだ。怒りといえば簡単だが実際は更に醜い負しか存在しない感情である。いやはや、どうしてこんな爆弾を抱えて生きていくことを強いられているのか疑問に思うのも鬱陶しい。
振り返ってみても蘇るのは辛い過去の記憶。自分は前世でとんでもない罪を犯したのか、今世でも生きていること自体罪なのか。自責の念に苦しむこともしばしばある。
しかしオワリはじまりではこう続く「かけがえのない時間を胸に刻んだかい」
かけがえのない時間。楽しくて嬉しくてずっと笑っていた時間なら今日、ある。
仕事を終え日課のPSO2へとログインしたとき、偶然開いたGJ。コーデカタログのいいねかと思いきやチームへの入団希望。
嬉しくて天にも昇る心地だった。
どうしてこのチームを選んでくれたのかと聞いてみた。
「まず兎の夢という名前が目について、チームフラッグが可愛い上にチームサイトまで存在していてここしかないと思った。」
想像の何十倍も、学校で習う"I make happy"という例文がピッタリな回答だった。
兎の夢というチーム名を本気で気に入っているのは自分だけだと思っていたが案外杞憂に過ぎなかったのかもしれないと感じた。
その後は入団したばかりなのにちょうど声掛けのあったトリガー祭りに一緒に参加した。
マスターのくせに自分の企画じゃないというのは情けない話であるが、自分の企画だとあそこまでの盛り上がりにはならなかっただろう。そう思うくらい楽しい時間だった。
「幸せに裏切られたはずの自分でもこんなに楽しんでいいのだろうか」普段は心の片隅に在るだろう疑問はどこかへ消えていた。
そういうチームじゃないか。自分のやりたいことや好きなことは全力で楽しむし支え合う。自分で作った習慣じゃないか。

チームマスターというのは不安定な役割である。マスターが問題を起こせばチーム全体の評判が落ちチムメン全員に迷惑がかかってしまう。自分で自分の首を締めるということはチームの首を締めているのと同義なのだ。
人が増えることは嬉しい。チームを好きだと言ってもらったり褒めて貰えるのはもっと嬉しい。誰かにとっての最初で最後のチームになれるのであれば更に嬉しい。
どうやら愛されるというのにも覚悟がいるようだ。

昔、自分の心を救ってくれた恩師から「さくやんはチームの奴隷になっている気がするのだ」と心配されたことがあった。
チームマスターなんだからチームのために動くのは当然だと思っていた自分にはその意味がイマイチわからなかった。
肩書きというのは恐ろしいもので、「自分はこの立場だからこうして動かなければならない」という主観たっぷりの先入観を植え付ける。
自分がチームのためにと思って動いたとしても、それはマスターという立場からみた場合のことであって、実際のチムメンの立場に立ってみたら不要なことだったのかもしれなかったのだ。
チームのために動いたつもりでもそれは単なる自己満足に過ぎないと。そしてそう考えてしまっていること自体が危険なのだと、恩師はいいたかったのかもしれない。
当時の自分はチームのためにという大義名分を前に自分自身が楽しむということを置き去りにしていたのだろう。
しかしその癖は今も抜けない。
眠れない私の悩みは、いつも人の顔色を伺ってしまうことによるものなのだろう。
どこまで行ってもリアル優先のチーム。
そう言っている当の本人はチムマスとしての自分がリアルなのだというプレッシャーを感じている。おかしな話である。
言い出しっぺがルールから外れてしまっている。それではいけないのだ。
チムマスである以上、公私混同はしない。
リアルを優先する。そんな生き方こそが理想なのではないか。
ぼんやりとしていた「ちゃんと生きる」という人生においての最大の目標に近づけているのではないだろうか。
責任が増えることは気が重くなると同時に嬉しいことなのだろう。
こんなにちっぽけな自分でも認めてくれる人が増えると、それだけ期待されているということなのだ。もちろんチームがこれほどまでに大きくなったのは自分1人だけの力ではなく、チムメンやフレンドの支えや協力、アイデアがあったからなのだ。自分の力なんて一割にも満たないのかもしれない。
一割にも満たない自分。それならいっそいらないと感じるよりは、何割にもなれる自分を目指そう。
明るい明日を夢見よう。
自分を信じて仲間を信じて。
覚めない夢の続きを、どうか一緒に

2021/6/7